仮面ライダークウガ
これは、映画・平成ガメラシリーズから端を発した、”大人の鑑賞にも耐えうる特撮番組を創る”という潮流の一つの偉大なる帰結点だと思います。

”もし、今のこの日本に得体の知れない怪人が現れたらどうなるのだろう?”というリアルなシュミレーションの下に物語られる初めての特撮ヒーローもの。

視点の一致
まず、主人公と視聴者の視点が一致している事が素晴らしい。

とかく今迄は、主人公にとって初めての体験であるはずにも拘わらず、いきなり変身出来たり、ポーズとしてのい戸惑はあっても、次の瞬間には必殺技の名前を叫びながら平気で敵を倒して行くというような事が当たり前だった特撮ドラマにあって、全く未知の不思議な力を、主人公と視聴者が同じ視点で共に発見し、一つづつ徐々に(そして丁寧に)解明して行く構成は画期的だと思う。

これが、かつてのどの特撮ヒーロー以上に主人公(クウガこと五代雄介)への感情移入を促す作用を果たしたと思う。

科学の視点
その、不思議な力の解明に一役かっているのが、考古学と現代医学。

クウガも怪人達(グロンギ)も共に超古代文明の産物という設定上、出土した遺跡の碑文解析によって徐々に未知の力の解明が図られる一方、現代医学(警察の監察医)の手によって、更に科学的視点での解説が施される。

つまりこんな所からも、未知の力を持った怪人(クウガ&グロンギ)という、現実にはあり得ない”嘘”を描く為に、それ以外の全ては徹底してなるべく嘘のない世界観で固めるという製作陣の姿勢が見て取れる。

超変身

おそらくは、より多くの商品を売る為の設定だというのは解っていながら、それでもあそこまで超変身(主人公の新しい能力獲得)の過程と、物語自体が丁寧かつ有機的に結びついている事には感心せざるを得ない。

とかく製作陣にとっては足枷になりがちな商品タイアップという制約を、むしろ逆手に執った物語展開は特筆に値する。

”ライダー”
今回のライダー程、ライダー(乗る人)らしいライダーはいないかも知れない。

それまでの(そしてその後も)、ともすれば単に移動手段としてバイクに跨がって来たライダー達の中で、これ程までに武器として、はたまた手足の延長としてバイクを有機的に活用したライダーも珍しいのではないだろうか。(…まあ、全シリーズを見ている訳ではないのだけども…)

しかも、そのバイクが次期白バイ隊用車両というのが泣かせる。(下記の、”警察との連係”の最も端的な例)

それでいて、劇中、ただの一度も「仮面ライダー」という呼称が使われない辺りの潔さが実に心地よい。しかも、彼を”クウガ”と呼ぶ事も、ごく親しい数人だけで、あくまで一般には”未確認生命体第4号”(クウガ、グロンギを問わず、怪人達は皆、未確認生命体と呼ばれ、出現、または確認順にナンバリングされている)と呼ばれており、それは最後まで徹底していた。

警察の視点
平成ガメラで、怪獣映画にほぼ初めて(○○防衛軍でもなく、○○隊でもなく、実在する)自衛隊が登場したように、クウガにはおそらく特撮ヒーロー史上初めてのまともな警察が登場する。

そして、やがて主人公と警察は連係して怪人達(グロンギ)に対処して行く訳だけれど、そこにまで至る過程も実に丁寧に追って行ってくれる。

警察の視点2
場面転換の際には、必ず場所と時刻のスーパーが入る。それも都内某所とかではなくて、具体的な地名で。時間の推移も、脚本の段階できちんと距離を把握し、実際の条件を加味して割り出しているそうな…

これがあたかも警察の調書の様なテイストを加え、かなり物語のリアルさに貢献していると思う。

助けを求められれば、何処に居ようと次の瞬間には現れたり、また都合の良い時だけ間に合ったり、間に合わなかったりとかいった物語上都合の良い展開が当たり前だったそれまでの特撮ドラマ世界にあって、これは実に画期的だった。

警察の視点3
警察にとっては、主人公もグロンギも共に異物として同じ存在である。(だから、最初はヒーローである主人公でさえグロンギと同じく攻撃対象でさえあった。)

勿論、やがてもう一人の主人公の一条刑事を通して両者(警察とクウガ)は和解して行くものの、それはあくまで個人としての繋がりであって、組織としての警察は最後までクウガとグロンギとの同一視を止めない。それは、最後まで彼を”未確認生命体第4号”と呼び続けた事でも証明されている。

この徹底振りに、リアルな物語の一端が見て取れる。

正邪同一
この警察、または世間による”クウガとグロンギの同一視”は、結果として、実は決して単なる誤解や偏見ではなかったとする展開に至ってはもう唸るしかなかった。

つまり、徐々にクウガの本来の力が覚醒し、それに呼応する様なグロンギ怪人の凶悪化、強力化とのイタチごっこにより、クウガの成長、進化はやがて頂点を極める。しかし、それはクウガとグロンギの文字通りの同一化への道でもあったのである。

ここで、「怪物と闘う者は、やがて自らも怪物になってしまわないように気を付けなくてはならない」(まあ、大体そんな意味…笑)という(確か、ニーチェか誰かの?)言葉が頭を過る。

”力”の否定
「我々人間にとっては、クウガだろうが、グロンギだろうが、いずれにせよ”異物”であり、必要以上の”力”は、それ自体が既に脅威なのである。」という視点。

そして、その行きつく彼岸として、物語はあろう事か、目的如何に関わらず、一切の”力(=暴力)”の否定という結論に達する。それはつまり、ヒーロー番組に於けるヒーローそのものの否定。クウガ(主人公)は存在してはいけないという結論。

道行き
最終回前に、実に2週に渡って、クウガこと五代雄介はそれまでに関わった全ての人々の下を訪ね、旅立ちを告げる。

それは、いよいよグロンギの最高実力者との決死の最終決戦の意味合いと共に、在ってはならない力を持ってしまった男の、その自らの内に在る”在ってはならない力”を、自らの存在と共に葬らんとする静かな決意表明でもあったように思う。

これは、一個の肉体を同じゅうする五代とクウガの、一種の”死出の道行き”に思えて仕方なく、もう、それを見ているしかない私はこの2週間は号泣し通しだった。(マジで涙で体重が減りました…笑)

皮肉な引導
その、最後の引導を引く役割を果たすのが、クウガの一番の理解者、一条刑事というのも涙腺を激しく刺激した。

かつて、クウガを危険視し続ける警察上層部の「もし、4号(クウガ)が警察の勢力下に余る時には?」の問いに、彼の答えて曰く「その時は、全責任を持って、自分が処置します」…。

まさか、こうして実際にそんな場面が来ようとは…

そして、この日の布石として、度重なるグロンギとの対戦で得た情報、経験を元に遂に製作に成功した”対未確認生命体用ライフル”の存在。(ここで改めて思い出す、最後までクウガが”未確認生命体第4号”と呼ばれ続けて来た事の皮肉)

おまけに、度重なる肉体酷使の結果、五代(クウガ)の身体は限界に達してもいた。そう、ここに及んでクウガに止めを刺せる条件は、図らずも整ってしまっていたのだ。

ここまで共に身を削って来た闘いの中で深めた絆を、その結果得た”力”により断ち切らざるを得ないという皮肉な結末。(これが泣かずにいりゃりょ〜〜〜か!)

五代雄介
そして、何よりも特筆すべきは五代のキャラである。

一見、ただの飄々とした兄ちゃんのようなのだが、これが回を重ね、物語が段々と深刻な状況になるに及んで、このぱっと見の飄々さ加減、軽さみたいな部分が活きて来た。

一見、彼は悩まないし、苦しまない…というのが言い過ぎであれば、少なくとも外見上そうは見えない。とにかく、彼はこれ見よがしに苦しんだり、悩んでみせたりはしない。

しかし、件の警察の監察医の診察により、彼の体内で進行している抜き差しならない状況が明らかになり、初めて彼の笑顔の裏が(その輪郭だけなのだけど)垣間見えて来る。

この、それまでありがちだった猪突猛進の熱血漢でもなく、さりとて全てを達観している訳でもなく、ごくそこら辺にいそうな兄ちゃんが、しかしただ黙々と自分の中で異物が成長して行く恐怖、自分が人間でなくなって行く恐怖と闘い、なおかつその上で見せる飄々とした笑顔はこの上もなく切ない。

最後の決戦を前にした”死出の道行き”の場面でも、彼は決して不安も、決意も口にしない。ただ、笑顔で「これが済んだら、旅に出る」としか言わない。そして誰もがそんな彼をとめる事が出来ない。ただ「その旅が終わったら必ず帰って来てね」という事しか出来ない。

本当に恥ずかしながら、これ程までに特撮ヒーロー番組の主人公に感情移入させられた事はない。脚本も演出も勿論だけれど、やはり五代雄介という人間のキャラクター造型には、演ずるオダギリジョーの貢献は大きいと思う。

また何時か変身しないのかな〜〜オダギリジョー〜〜!!